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心の叫び


大人になるために


花田なちゆの人となり

HN→花田なちゆ(ちょっと改名しました)
この頃とっても考える人です。
久しぶりに脳が文学チックになっています。

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「来し方行く末」


 遠くに聞こえる除夜の鐘。部屋の中はストーブと加湿器の湯気で暖かい。 テレビでは、今流行りのお笑い芸人が「あけましておめでとう」と言いながら、 裸になったり熱湯に入ったりしてはしゃいでいる。はしゃいでいる、というよりは 仕事だから体を張っているだけなんだろうけど。お正月のどんよりとした倦怠感漂う テレビ番組は、何のために存在するのだろう。

「あ」

今おなかを蹴られた。おなかの中にいる新しい命。おなかの中に自分以外の何かが いるという感覚はやっぱり慣れない。産むということは、一度自分が死を経験するような そんな行為のような気がする。私が死んで、この子が生きる。

「どうしたの??おなか痛い?」
「ちょっと今おなかを蹴られたみたい」
「そっか、多分俺に似て元気なんだな」
「ふふ、もうすぐ生まれるね。」

「ねえ、名前ね」
「うん、決めたの??」
「蓮っていうのがいいなあ」
「蓮かー、なんかかっこいいな」
「すごい素敵な言葉なんだよ」
「へぇ、そうなんだ。いい名前だね」

そういって頭をなでてくれる暖かくて大きな手。こんなにやさしい人はいないと思う。 私が穏やかで入れるのはこの人がいるから。蓮の契りという言葉を思い出す。

私が死んでこの子が生まれる。

私が今まで生きてきた「来し方」は正しかったのだろうか。そしてこれから生きる 「行く末」は正しいものなんだろうか。今おなかの中にいる子はまだ私のおなかという 蓮の台にいるのだ。私が死んでこの子の人生が始まる。これからの人生がよいものであるように 108の煩悩はおなかの中に置いてきて。幸せでありますように。


■解説■

えーと、ショートストーリーを書いてみました。フィクションですよ。別に私妊娠してませんし となりで私をなでてくれる男の人もいないですしねw
この年末年始、すごい色々考えたのです。そして「来し方行く末」という古文単語、 テレビの「行く年来る年」、お笑い番組、自分の今の状況、私の考える幸せ、 いろんなことを考えたらぽっと思いついたお話だったのです。

蓮の台という言葉も好きです。昔の人は、今自分の生きている世の中を 「仮の世」と思っていました。死んで生まれ変わる世界こそ極楽浄土で、 自分の生きる世界であると。蓮の台は、死んで極楽浄土に生まれ変わった人が 転生する場所のことです。まだ生まれていない子どもは蓮の台で死んで この世に生まれてくるのでしょう。死と生は隣り合わせです。 人は生きながら死に、死にながら生きるのでしょう。 蓮の契り、というのは生まれ変わってもまた一緒になれるという深い運命のことです。 ロマンチックなこの言葉、大切にしたいですね。



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